
埼玉県深谷市内には酒蔵が3か所あるが、滝澤酒造はそのうちのひとつである。1863年に現在の埼玉県小川町で創業、1900年に深谷市に移り、1930年には深谷の煉瓦で煙突を建てた。1959年に会社設立。以降も、菊泉(きくいずみ)をはじめとした日本酒を世に送り出している。 今回はバンブックのリロカ事業メンバーとお付き合いの長い、滝澤酒造の6代目蔵元、滝澤英之さんに、お酒や深谷市のことについて、お話を伺った。

小さいときは酒蔵を継ぎたくなかった
――蔵元杜氏になったきっかけは。
滝澤英之さん(以下、同)「私はこの会社の6代目です。歴史がある酒蔵ですが、酒蔵って創業150年くらいのところが多いんです。うちも160年ちょっとになる。6代目の蔵元候補者として生まれたわけですけれども、小さいときは酒蔵を継ぎたくなかったですね。その理由は、子どもってお酒がどういうものか分からないじゃないですか。だから、大人が酔うってことがなんか不思議っていうか、ちょっと怖い感じでした。私のおじいさんも結構なお酒好きだったんですけれども、よく色んな会議で呑んできて、酔っ払って帰って来るのを見るのは、すごく嫌だったんですよね。大声だしたりだとか、だらしなくなったりだとか、そういうことがすごく嫌だった。それだからもう日本酒ってあんまりいいイメージはなかったんです。
私が子供の頃から大きくなるまで、出稼ぎの方々が酒蔵に来ていました。冬の間だけ遠くにいる人達が、具体的には岩手県の人たちですね、酒造りに来ていたんです。南部杜氏と呼ばれる人たちです。酒蔵に来ていた南部杜氏たちが朝早くから夜遅くまで仕事しているのを間近に見ていると、大変な仕事だなと思って、やりたいと思わなかった。
ではこの仕事をやるきっかけが何だったかとういと、ある漫画に出会ったんですね。その漫画のタイトルは『夏子の酒』(尾瀬あきら著)です。私が高校生だったか、あるいは大学生ぐらいの時に、友達から「こんな漫画があるから読んでみて」と勧められて読んでみたら、漫画に描かれている光景が、岩手県から出稼ぎに来ている人たちの働く姿で、それこそ自分が子どもの時に見た光景だったんです。それでちょっと面白いなって思って、そこからハマっていきました。」
――漫画に描かれた様子が、原風景と重なったのですね。子供の頃は勤勉なタイプでしたか。
「まあそうですね、どちらかというと真面目な方だったとは思います。では、何になりたかったかというと、なりたい職業っていうのは無かった。大学生の時に塾の講師は、やっていました。しかし、結果的に先生にはなりませんでした。でも、人に教えるのは面白いなと思いました。」
――人に教える道に進む意思はなかった?
「なぜかというと、大学のときに『夏子の酒』を読んで、日本酒の道に進むと既に決心したからです。それで、大学を出てまずは別の酒造会社に入った。」
――石川酒造ですね。
「そうです。石川酒造は米軍の横田基地がある福生市の会社です。3年半ほど修行させてもらった。石川酒造では、一度に沢山のお酒を造っていたので、いい経験になりました。いま滝澤酒造で造っている量の50年分を1年で造っていた。だから、そこで酒造りを2年間やったので、酒造りに関しては100年分の経験したことになる。」
――その後に広島にお移りになられ、醸造研究所に所属した。
「かつては醸造研究所という名前でしたが、現在は酒類総合研究所に名称変更されています。国税庁の研究所だったんですけれども、今は独立行政法人に変わりました。旧醸造研究所では、1年間勉強させて頂きましたが、具体的には酒造りの基礎を学んだり、あとは実験的な酒造りだとか、様々な事をさせて頂きました。それだけではなく、旧醸造研究所には日本全国の酒蔵から後継者ですとか、杜氏の方が沢山集まってくるんです。これがいい経験になりまして、何かを学んだというよりは、その方々と日々お酒を呑みながら色々なお話ができたのが、勉強になりましたし楽しかったです。」
――東京の石川酒造では実務を学ばれ、広島の旧醸造研究所では商品開発を学ばれた、ということでしょうか。
「そうですね、石川酒造で現場の技術を学んで、旧醸造研究所ではその理論を学んだというような感じでしょうかね。」
――やはり学んだことを、体系立てて考えたいというところがあった?
「それもありましたね。それと同時に、やはり日本全国から色んな酒蔵から人が集まると聞いていましたので、他の酒蔵の人と交流を持ちたいということが第一の目的でした。その時に出会った方とは、今でも交流が続いています。もう30年近く経ちますけれど。まあ仕事が同じという事もあるので、色々な場面で会うこともあります。例えばお酒のイベントですとか、会議だとか。学生時代の同窓生よりも結びつきが強いです。」

私が深谷に戻ってきた時
――広島での仕事に区切りを付けて、いよいよ深谷に戻るわけですが、杜氏として戻られたのでしょうか。
「杜氏というのは酒造りの責任者で一人だけなんですね。ですので、将来の杜氏候補として戻ってきたというような具合です。とはいえ、その時は杜氏になるとは思ってなかった。それというのは、昔の考えでいくと蔵元と杜氏は別ものだったので、蔵元になると思っていました。しかし結果的に、私は蔵元でもあり杜氏でもある、ということになりました。
意外かもしれませんが私みたいな立場の人が多くて、全国でおおよそ40%位の人は蔵元杜氏という調査結果もあるようです。何故そういう事になったか、はっきり言ってしまうと、日本酒が売れなくなってきたからなんです。日本酒は世の中では注目されていると思われがちなんですけれども、消費量はかなり落ち込んでいて、今はピークだった時期の20%くらいしか造ってないんですね。それで、滝澤酒造でもやはりピーク時の20%くらいしか造っていません。それだけ日本酒が呑まれなくなってきている。当然ですが酒蔵の数も減っています。そのような状況なので、蔵元が自ら杜氏となって酒を造ったほうが人件費を抑えられるというのが、蔵元であり杜氏でもある最大の理由です。蔵元自身が思ったとおりの酒を造りやすいという大きなメリットもあるんですけれども、それよりも人件費が一番大きな影響を与えています。」
――ピークの20%は大きなインパクトですが、ピーク自体はいつ頃ですか。
「1973年ですね。私が深谷に戻ってきた時にはもう衰退していました。それでも今より落ちていなかったんです。そこからさらに落ちて、どんどん落ちて……、日本酒だけじゃないですけれど、リーマンショックがあったり、その前のバブル崩壊があったり。トドメをさしたのがコロナウイルスです。これは業界にとって相当ダメージが大きかったです。」
――お酒の席がなくなった。
「そういうことです」
――個人で呑むようになると、カップや小さいものが選ばれるようになる。
「そうですね。そうすると、そこで売上をうまく転嫁したところもありますけれど、弊社含めて殆どが対応できませんでした。ダメージが大きかったです。そういう状態なので酒蔵の数は年々減ってきています。深谷にあった七ツ梅酒造も、2004年に廃業しています。これは、リーマンショック前ですけれどね。」
――杜氏になられたのはいつ。
「2008年です。なんでなったかというと、私の前の杜氏さんが、やはり岩手県から出稼ぎに来た方なんですけれども、その人の年齢が70歳超えていましたので、辞めるってなったときに、じゃあ次をどうしようかって。それで、自分でやるしかないかな、というふうに決心して杜氏になりました。」
――蔵元になられたのは違うタイミングですか。
「そうなんですよ。蔵元、つまり社長になったのはもっと後の2017年です。」
――引き続き季節労働者の手を借りることになったのでしょうか。
「いや、もう私が杜氏になってから岩手からの人は来なくなりまして、あとはもう社員だけで造るようになりました。季節労働者は減りましたね。私がそれこそ、子供の頃なんかは多かったですけれども、わたしが季節労働者の方と一緒に9年間酒造りをやっていた時は2人しか来ていませんでした。」

一言で言うと名脇役っていうんでしょうかね
――酒造りでこだわっている点はどこでしょうか。
「先程話したように、日本酒の生産量が全国的に落ちているんで、このままだともう本当に大変なことになるっていう危機感を前々から持っていまして、弊社では新しい酒造りに取り組みたいと前々から考えていました。そのひとつがスパークリングの日本酒なんです。「ひとすじ」というシリーズを出しました。発泡性の日本酒で、シャンパンのようなお酒ですが、今までの日本酒とは全く違う味のお酒で、見た目もシャンパンと同じような製法で綺麗ということで、注目を浴びました。ちょうどそのときに同じような製法で発泡日本酒を造る同業他社とも出会いまして、2016年にAWA酒協会という集まりを9社でスタートしました。そのAWA酒協会に酒蔵が集まって、スパークリングの本格的な日本酒を普及させようという目的で発足したんです。立ち上げは、群馬県の永井酒造の社長です。いまでも会長をされています。いまは33社にまで増えました。毎年少しずつ増えていますね。」
――スパークリングの日本酒は洋食でもあうような味をイメージしますが、いかがでしょうか。
「滝澤酒造の『ひとすじ』はワインに近いような味わいなので、おっしゃるように洋食に合います。特にバターとかクリーム使ったお料理などには、よく合うかと思いますね。」
――話が少し戻りますが、日本酒づくりで「箱麹法」を採用されている。他にも「蓋麹法」と「機械麹法」がある中、「箱麹法」を選んだ理由は。
「もっとも伝統的な麹の作り方というのは、蓋麹法と呼ばれる、小さい箱で造る方法なんです。逆に進んだやり方というと、機械で造るような方式で、滝澤酒造で行っているのは箱麹法。蓋麹法に比べれば大きい箱なんです。結論から言うと、やっぱり一番使い勝手がいいんです。機械と比べると管理がしやすいと言いますかね、温度管理がしやすいんですよね。蓋麹法に比べると箱がやや大きいので効率的にできるので、昔から箱麹法です。人によって意見が分かれるところなんですけれど、蓋麹法でなければという酒蔵もありますし、あるいは効率性良くするために機械で行っているところもあるので、何が正解っていうのはないかと思います。」
――機械よりも温度管理しやすいというのは驚きです。
「機械にも色んな機械があるんですけれども、一部の機械はムラが出やすいんです。そのムラがでにくいのが箱麹法かなと、私はそう思っているんです。箱を重ねたりはずしたりして温度調節したり、あとは温度の上がり方によって、『手入れ』といって中を混ぜたり少し広げたりして、こまめに温度調節できます。」
――滝澤酒造では純米酒も扱っていますが、純米酒に対する考えについて。
「あくまで一個人の考えではあるんですけれども、以前は、日本酒イコール純米酒という考える人がとても多かった。要するに、醸造アルコールというものを添加したら本物の日本酒じゃないっていう考えです。最近は世の中が少し寛容になってきて、ある程度そういう考えが少なくなってきたんですが、それに対する『そうじゃないんだよ』という自分のメッセージなんです。」
――そうじゃないというのは、より具体的にはどのようなメッセージでしょうか。
「香りをたたせる為には醸造アルコールは必要ですし、日本酒の進化の為には醸造アルコールが必要なものだと考えています。」
――そのお考えには広島の研究が生かされている?
「そうですね、研究もありますし、あとは色んな交流の中でそう思うようになったんです。色んな考え方の人がいますので、酒蔵でも純米酒しか造ってないというところもあります。もちろん純米酒を否定しているわけではなくて、純米酒にも美味しいものは沢山ありますし、滝澤酒造でも純米酒を造っています。ちなみに滝澤酒造のスパークリングはぜんぶ純米酒です。だから純米酒も認めるし、醸造アルコール添加したものも認めるっていうような、そういう考え方です。」
――販路についてもおうかがいしたいのですが。それと、どのような方々がどのようなシチュエーションで呑まれていますか。
「お酒が売れていた頃は、殆どここ深谷市だとか、隣の熊谷市など、埼玉県の北部でほぼ流通していました。家でも呑まれていますが、取引先に飲食店へ卸す酒販店さんが多かった。居酒屋とか料亭とか、そういうところに出していたんですが、日本酒の出荷量がどんどん落ちてきてしまって、なかなかそれだけだと販路が狭くなってしまう。それで危機感を感じて、いまは実際にお客様が酒蔵に来て購入されるとか、まだまだ僅かですけど輸出も増えてきました。北米、カナダが多いですが、いまトランプ関税でちょっと鈍くはなっています。最近アジアでも販路を開拓しました。それでも輸出ってまだまだ全体の1割もいってないです。以前は輸出が無かったので、それに比べれば大きな違いですけれど。輸出している酒の殆どはスパークリング『ひとすじ』です。」
――「ひとすじ」をつくるきっかけは。
「発酵途中に生じる味わいを再現したいと思ったのがきっかけですね。甘みと酸味が際立つときがあるんです。お酒っていうのはお米をふかして発酵させて、そこに麹いれたりと、そうして混ぜ合わせたものを醪(もろみ)というんですけれども、醪の発酵途中の味わいを再現したいと思ったんです。流通しているお酒は発酵が完全に終わって、絞って瓶に詰めたものなのですけれども、もちろんそれはそれで美味しいのですが、発酵途中のある時期でしか味わえない美味さがあるんです。」
――スパークリングだけでなく、吟醸や純米酒含めて、滝澤酒造のお酒の特徴をおしえてください。 「一言で言うと名脇役っていうんでしょうかね。お酒自体が主張しないんですけれども、主役である料理を上手に引き立てるお酒かなと思います。料理がより美味しくなるためのお酒って言うんでしょうかね。具体的にどういう味わいかというと、香りはそんなに強いわけではなくて、ほどよい香りがあって、味わいもすっきりしていて切れがあるというんでしょうかね。これがスパークリング以外の菊泉の特徴で、スパークリングの場合は真逆にあるかなと思います。もう完全にお酒が主役です。味わいとしてもワインで言うところのフルボディタイプ。甘味と酸味がしっかりあって、味も濃くて、料理も洋風なものにも合わせやすく、単体で美味しくのめるお酒です。」

地域が発展しないことには将来はない
――滝澤酒造はグローバル展開に取り掛かりつつも、ローカルに注力されている。深谷の魅力は。
「深谷の魅力は地域愛です。たとえば、お中元だとか御歳暮だとかギフトの時期があるじゃないですか。その時に深谷産のものが売れるらしいんですよ。私も、例えば海外に行くとき、お土産は東京のものではなくて深谷のもの持って行くのですが、そういう人が深谷には多いです。あとは地域で何かに関わりたがると言うんでしょうかね、ここらへんって近所付き合いが多いので、お祭りの時も集まりますし、それは楽しいですね。ですので、みんな地元好きっていうのがこの町の魅力じゃないですかね。」
――何か目標はありますか。
「滝澤酒造の1社だけ売れ続けていく事は、多分あり得ないと思うんですよ。例えば深谷っていう地域で区切ったときに、やっぱり地域全体が儲からないと、うちも儲からないかな、って思うんです。ですから地域が発展しないことには将来はないので、この深谷をいかに盛り上げてくかって事が重要で、自分達が引っ張るくらいじゃないと駄目なのかなって思います。」
――もう少しリロカ事業部にも頑張って欲しいと。
「頑張って欲しいというとちょっと上からの言い方になりますけれど、今後も一緒にやっていければと思いますし、実際やってくれていますけどね。」
――ちなみにですが、弊社バンブックのリロカ事業とどのようなキッカケで繋がりましたか。
「『道の駅はなぞの』にFARMY CAFE curry stand(注釈:バンブックが総合プロデュースと運営を受託したカフェ)があって、今でも場所を変えて年1回は行っていますが、そこで『漬物酒BAR』というイベントを初めて行いました。その『漬物酒BAR』は、マルツ食品の鶴田社長の発案で、日本酒と漬物の食文化を復活させようというような試みです。場所を提供いただいたのが、バンブックさんのFARMY CAFEということです。コロナ前のことだったと記憶しています。」
――今後、深谷とどのように関わっていきますか。
「今、私は商店街連合会っていう組織の会長もやっているんですけれど、町の中心が活性化しないことには深谷の発展も厳しいかなと思っています。日本各地に行くと、町の中心が盛り上がっている所と、そうでない所がありますが、深谷はどちらかというと、そうでない。ですので、町の中心が盛り上がっている地域を参考にして、出来ることを探っていくつもりです。深谷って昔は宿場町だったので、宿場町の復活がキーワードになるのかなと思っています。」
――それでは最後に、唐突ですが一句いただければ……。
「一句ですか?! いきなり難題がきたな(笑)。数分待ってください。」
――突然でフェアではないので、私も脇(五七五に続ける七七のこと)を付けます。
ひとすじの泡がおりなすまろやかさ 英
歴史をつむぐ杜氏の夜明け ア

聞き手:大山アランラドクリフ(バンブック リロカ事業部)
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