
今回は、地方創生が市民運動から始まったケースに着目する。それは小樽運河である。観光地として知られる小樽運河の姿は、埋め立てられた後の姿である。こうしたことは、あまり知られていない。そもそも、運河は全て埋め立てられる予定であった。市民による運河埋め立ての反対運動が起きたが、結局は半分が埋め立てられ、幅の狭い運河が残った。
地方創生が市民運動から始まったということは、シビック・プライドが働いているということである。小樽運河の埋め立てについて知ることは、シビック・プライドとは何か、考えるキッカケになるのではなかろうか。
大正12年(1923年)、貨物の増加に伴い沖合を埋め立てたてて、小樽運河が完成した。明治から昭和初期まで、小樽運河は“北のウォール街”と呼ばれた。
敗戦後、“最大の商圏”であった樺太がロシア領となり、小樽港の取引は一次低迷したが、昭和20年代後半から輸出入量が回復し、昭和30年代半ばには、インチ材と石炭の輸出で戦前のピークに近い取引額となった。しかし、原木不足と石炭産業の斜陽化、苫小牧港の発展整備、さらに昭和36年(1961年)の住友銀行を皮切りとした、協和、勧銀、三和、第一、東京、三菱、富士などの大手都市銀行が10年以内に全て札幌に支店を移した事や、自動車の発展もあって、小樽運河は衰退に向かい、運河としての機能を失った。
小樽市や経済界は、こうした事態の挽回を図るべく、自動車道の高速化などの案を出した。その中で小樽運河を埋め立てて道路化する案が俎上に載せられた。昭和41年(1966年)、港に向かう道路の交通渋滞もあり、小樽市は運河を700m埋め立てて道路にする方針を明らかにした。昭和42年(1967年)、国道5号線を補完し、道中地区と小樽を結ぶ、全長24.3kmの札樽(さっそん)自動車道(以下、札樽道)が着工した。
昭和47年頃、小樽市教委と道教委は事態を受け止め、倉庫群を再調査し状態を図上に示して文化庁に保護対策を要請した事が、北海タイムズで報じられた。その後、有幌(ありほろ)地区の倉庫30棟が全て解体された。
「小樽運河を守る会」が発足したのは、札樽道着工から6年後の昭和48年(1973年)であった。翌年に「守る会」が発行した『運動の手引き』に「『守る』ことは創ることである」という標語が書かれていることが、この会の性質を表している。
「守る会」による、最初の市長・市議会への陳情は、①市民共通の文化的遺産である運河と周辺の建築物の保存、②道道臨港線は運河を避けること、③運河は水をきれいにし、倉庫群も再利用して運河公園とする、というものであったが、市は運河の全面埋め立てを継続する姿勢を崩さなかった。
転機は清掃活動であった。昭和52年(1977年)、市内外から150名の人が集まり、川を綺麗にする「クリーン作戦」を実行した。ゴミはトラック15.5台分にも及んだ。これを契機に、市民が遠巻きに見守る市民運動ではなく、市民が自由に参加できる、現場主義の市民運動に転換された。二度目の清掃でも同量のゴミを処理、6基のベンチを据えて案内板を備えた。
この運動の成功をもとに昭和53年(1978年)、「守る会」と若者たちの有志が運河で「ポート・フェスティバル・イン・オタル」を開催、2日で8万人が集まった。当時の小樽の人口は18万人である。(来訪客数は諸説あり。この「ポート・フェスティバル」は運河が半分埋め立てられた後も続き、1994年まで開催された)。港の旧税関跡の特設ステージでは、フォークとロックのコンサートが開催され、石造倉庫ではジャズ、映画、舞踏が入れ替わりで行われた。艀ではフォークコンサート、クイズ合戦が行われ、水上ビアガーデンは予想を上回る客入りだった。「ポート・フェスティバル」はまちづくりのキッカケとなった。
その後、商工会議所トップが保存派へ方針転換を表明するなどの出来事もあったが、昭和58年(1983年)、行政は手続きを進め、運河は半分埋め立てられる事になった。昭和59年(1984年)11月11日、埋め立て工事着工日、ついに運河に杭が打たれた。
この埋め立ては「小樽運河周辺地区環境整備計画」に基づくものであった。歴史的建造物(石造倉庫群など)の景観を活かし、運河水面やガス灯、石畳の散策路などの環境整備で街並みを形成し、小樽運河は小樽市を代表する観光地として再生した。
一般的にシビック・プライドは特定の地域に誇りや愛着を持つというような意味合いである。しかし、「小樽運河を守る会」のシビック・プライドには、2つの側面があるように思われる。この2つの側面は混交していて見分けがつきにくいが、明確な区別があるのではないか。そして、どのようなシビック・プライドにも、この2つの側面があるのではないか。
1つ目は、極めてうしろ向きの感じがあるシビック・プライドだ。それは市民が遠巻きに見守る市民運動であり、機能を失ってしまったものを憐れみ、それ以外の気持ちを封じて否定的な符合を与える。「小樽運河を守る会」にも、とにかく運河を残せばよいという考えがあったことはパンフレットに明記されていた。しかし周囲の者には、朽ち果てて機能を失った運河の何を誇っているのか、わからない。
2つ目は、より開かれた、多様なあり方を目指すシビック・プライドだ。「ポート・フェスティバル・イン・オタル」のような市民活動には、小樽を愛するシビック・プライドが働いている。多様性を受けいれることができ、あらゆる個人がすすんで、喜んで行動することができるようなボランティア精神がある(ボランティアの語源はラテン語のVoloで、「喜んで何かをする」の意である)。多様性を受け入れることは人と人、人と物を喜びで繋げて、細かい網目状のネットワークを張り巡らせる。地域振興、地方創生がそもそも、このネットワーク構築に向かったものであることを、小樽運河をめぐる闘争が教えてくれる。
シビック・プライドを打ち立てるとき、そこに「喜び」はあるか。多様性の受容はあるか。地域振興を行う、われわれリロカ事業部にとっても、深く考えるべきことである。
参考文献:
荒巻孚「北の港町小樽 : 都市の診断と小樽運河」(1984年)
小笠原克「小樽運河戦争始末」(1986年)
小樽市「小樽市歴史的風致維持向上計画(案)」(2025年)
文 大山アランラドクリフ(バンブック リロカ事業部)
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